9月
戯言
「もし死んだらどうなるんだろ?」
「死後の世界はどうなんだろ?」
子供の頃、よくこんな思いにふけっては眠れぬ夜を過ごした。
死にたくない、怖い・・・
そんな思いもあったが、若い頃は
「自分だけは簡単に死ぬことはない」
そんな根拠のない自信があった。
40を過ぎた今、これまでたくさんの人の命の炎がつきる場面に出くわした。
最近は心の支えになってくれていた大事な人を亡くした。
気丈に病と闘っていたばかりか、私のような人間をも励まし続けてくれていた彼でも、残したノートには「死」への恐怖が書かれていたと言う。
やはり究極の「一人」というのは耐え難い恐怖を与えるのだと思う。
私は「死後の世界」とか「霊感」なんてものを信じてこなかった人間だ。
今でもそれほど信じてはいない。
でも、もし死後の世界があったら、どれほどいいだろうと思う。
そこには孤独感もなく、護ってくれる親のような存在や、支えになってくれる友もいるかも知れない。
やはり、究極の孤独は恐ろしい。
なぜ生まれたばかりの子供は泣くのだろう?
たくさんの人間がいる世の中に生まれ出たのに。
孤独ではなくなるのに。
十月十日一体だった「母」から離されるから?
死後のことばかりではなく、誕生の瞬間にも謎は多いと感じる。
十月十日という短い期間に、地球に生命が誕生してからの進化の過程を辿って「人間」になるらしい。
死後の世界があまりにも素晴らしい場所だからこそ、現世に生まれたことを嘆き悲しみ、赤子は大声で泣くのでは?
もしそうだとしたら、「死」なんて畏るに足らないものではないか。
いや待てよ。
それほど素晴らしいところがあるならなら、みんな自ら命を絶ってしまうではないか。
人間のほとんどが、いや、生きとし生けるもののほとんどは「生」への執着心を持っているではないか。
私の尊敬する方は
「死後の世界はあるかも知れない。そう思って過ごした方が楽しいと思う。本当にあるかどうかはわからないけどね。でも、今生でなければ出来ないことがたくさんある。それをしっかりやり尽くさないと、あるかも知れないあの世で後悔すると思うよ。」
そう病床で言ってくれたことがあった。
「絶対あきらめない」
これが彼の信条だった。
命の炎の尽きるときは、誰にもわからないこと。
「その時はしかたないのさ。でも、あきらめたらダメ」
いつもそう言っていた。
私は今でも「現実主義者」。
命が尽きたら静寂のみ。
そう思っている。
が、この数週間で、身の周りに起きた「事実」は受け止めている。
だって、それは紛れもない「事実」なのだから。
見えたもの。
壊れた時計。
あがった車のバッテリー。
つきまとうラップ音。
突き詰めればきちんとした「理由」はあるのかも知れない。
でもここは、そっと受け入れたいと思う自分がいる。
だって、あるかも知れない「あちらの世界」。
信じ切れないけど、あるかも知れないと思っていた方が楽しいではないか。
等と、とりとめもないことをずっと考えながら過ごしている今の私。
この日記はまさしく「戯言」なので、サラッと読み逃げしていただければ幸いに思う。